礼拝説教要旨
2026年8月2日(日)礼拝説教要旨
「それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人
アブラハムと共に祝福されています。」
(ガラテヤの信徒への手紙3章9節)
アブラハムは75歳の時神の召しを受け、未知の土地へと旅立ちました。紀元前2千年頃の話です。その折に、神は「地上の氏族は全てあなた(アブラハム)によって祝福に入る」(創12:3=ガラテヤ3:8)との祝福の約束を福音としてお与え下さっていました。その約束はその2千年後にイエス・キリストによって果たされ、今に至っています。神はキリストの十字架の死と甦りを通じ私共全ての人間を罪から贖って、恵みと愛を一切資格を問わず無条件にお与え下さいました。それは十字架の死を通じイエス・キリストが私共の罪、不義の一切を引き受け給うたのと入れ替えに私共にはキリストがお受けになるべき祝福の全てを無償でお授け下さったという事です。この神の御心を信じ受け容れて恵まれる決心を信仰と言うのです。神からの一方的な御好意を受け容れる事から信仰は始まり完成へと向かいます。“信じる事によって救われる”それが福音であるのです。
牧師 桑原睦彦

2026年8月9日(日)
「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、
わたしたちを律法の呪いから贖い出して下さいま
した…。」(ガラテヤの信徒への手紙3:13より)
強烈な言葉です。パウロは私達人間がいくら律法の行いに励んでもそれによっては決して救われず、むしろ呪われてしまう(祝福を手放す事になる)と徹底して語ります。人はただ福音を聴いて信じる以外に救われる事は出来ない(不可能)と告げました。しかしその福音もイエス・キリストが私共の代わりに罪や不義の全てを引き受けて神から呪われて十字架に死なれたからこそ、私共を呪いから解放し祝福のみを約束出来るのだと説く事を忘れませんでした。“木に架けられた(十字架に架けられた)者は皆呪われる(神に呪われる)”(13節b=申命記21:23)との旧約以来の定めは、イエス・キリストの十字架の死が何故必要とされたかを説き明かしています。それは私共人間を罪の呪いから贖い出し福音の下に移す為には、罪無き神の独り子キリストが私共に代わって呪われて死ななければならなかった為でした。
牧師 桑原睦彦

2026年8月16日
「…しかし神は、約束によってアブラハムにその
恵みをお与えになったのです。」
(ガラテヤの信徒への手紙3章18節より)
パウロはキリストの福音を説き明かす為、信仰の人アブラハムの事を取り上げます。かつて神がアブラハムに約束された祝福は“福音”であり(8節)、“彼とその子孫は恵まれて豊かに祝福される”との約束は、今やキリストの贖いにより実現したのだと語ります。そもそも神の約束は“契約”と言う形で“遺言”の様に確実に実行されました。聖書の旧約、新約の“約”はまさに契約(約束)の約であり“遺言”の意味をも含みます。神は永遠の存在であり乍ら、あえて“遺言”の形を取って私達全ての人間に祝福を約束下さいました。“遺言”が法律的に効力を持ち始めたなら、本人以外誰一人これを無効にしたり勝手に付け加えたり、まして反故になど決して出来ません。神が私共との間に交わし給うた契約(約束)も既に圧倒的な効力を持って実行され続けています。その事を信じ受け容れる者は、恵まれて神の豊かな祝福に支えられ導かれて行くのです。牧師 桑原睦彦

2026年8月23日(日)
「それでは、律法は神の約束に反するものなので
しょうか。決してそうではない…。」
(ガラテヤの信徒への手紙3章21節より)
神の祝福の約束と律法との関係を説いて来たパウロは律法の役割について語り始めます。律法はキリストが現われる迄の間、人間達の罪を明らかにすると共にキリストへと導く養育係の役目を果したのだと語ります。古代ローマ社会では、家庭教師の様に勉強の指導をするのでなく、生活指導をする養育係を置く事がありました。それは子供が成人する迄の働きで、律法もキリストの出現によってその役目を終えたのだと言うのです。ただそれは、ガラテヤの信仰者達がユダヤ主義者に惑わされていたからです。役目を終えた律法の掟に縛られる必要は無いと言う意味であり、主イエスも「私が来たのは律法を廃止する為でなく、完成する為だ」(マタイ5:17)と仰いましたから、福音の下では尚律法には果たすべき役割が与えられたと言うべきです。福音を土台とした時、律法はその本来の目的(神の御心に従う)を果すものとなるのです。信仰は無律法ではないのです。
牧師 桑原睦彦
2026年8月30日
「信仰が現われる前には…、しかし、信仰が現わ
れたので…。」
(ガラテヤの信徒への手紙3章23,25節より)
“信仰が現われる(た)”と言うのは“信仰が来た”とも訳せる言葉です。不思議な表現ですが、これはイエス・キリストの来臨を意味しています。信仰と言うものは自分が信じるという事で、だからこそ信仰を持つのも自由だけれどもこれを捨てるのも私の自由だと、ほとんどの人が考えているだろうと思います。信教の自由であればそれも正しい事でしょう。しかしパウロが言うのは「信仰は私共の外から来て与えられるものであり、自分の内には無いものだ」という事です。聖霊によらなければ誰も“イエスは主である”とは言えません(Ⅰコリント12:3)。神への信仰は“神の信仰”であり、イエス・キリストへの信仰は“イエス・キリストの信仰”であり“イエス・キリストの真実”を信じ受け容れる事であるのです。“私達は誠実でなくてもキリストは真実です”(Ⅱテモテ2:13)。自分の気力や努力で保つ信仰は、律法の実行によって救われようとするのと同じ間違いなのです。
牧師 桑原睦彦