礼拝説教要旨2026年7月
2026年7月5日
「さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非
難すべきところがあったので、わたしは面と向か
って反対しました。」
(ガラテヤの信徒への手紙2章11節)
パウロが痛みを持って振り返ったのは、エルサレム会議の後ペトロがシリアのアンティオキア教会を訪問した時の事でした。主イエスの名の下にはユダヤ人も異邦人も無く、奴隷と自由人の区別も無く、男女の差も一切無い、キリストにおいて1つである(ガラテヤ3:28)と明らかにされた後、ペトロは異邦人が大半を占めるアンティオキア教会を訪れ、交わりを深めます。ところがユダヤ系キリスト者達が訪れた折、ペトロは急に態度を変え異邦人達との交わりから遠ざかってしまいました。その姿は福音に則った真直ぐな姿ではないとパウロは皆の前で厳しく非難したのです。キリストの福音は、誰彼の区別なく自由の喜びに根差し互いの交わりを豊かに与えます。差別を乗り越え心を結び合わせる力が福音にあるからです。キリストの福音に則って真直ぐに歩くなら、誰もが心通わせる祝福が約束されているのです。
牧師 桑原睦彦

2026年7月12日
…これは、律法の実行ではなく、キリストへの信
仰によって義としていただくためでした。」
(ガラテヤの信徒への手紙2章16節より)
手紙はいよいよ佳境に入ります。“信仰による義”が語られ始めるこの箇所は、プロテスタント教会の中心的教理を説き明かす本体部分(3~4章)の入り口に当たります。“人が神に義とされる(救われ、認められ、神との本来あるべき関係に戻る)のは、律法の行い(善行)によるのではなくイエス様を信じる信仰による”との御言葉は、この世の成績主義、能力主義とは全く違う神の恵みに基づく救いです。神の恵みに与るのにユダヤ人も異邦人も無く、奴隷や自由人の区別も一切無いのです。皆神の御前に罪人であり、神の憐れみ、赦しを願う他ない罪の奴隷でありました。しかし神はこれを唯憐れんで恵み、神の独り子キリストの十字架と引き換えに“義”をお与え下さいました。その神の一方的な御好意を信じ受け容れる処から出発するのが信仰です。“キリストへの信仰”は“キリストの真実”と言う意味でもあります(共同訳)。主の真実こそが私共の希望であるのです。
牧師 桑原睦彦
2026年7月19日
「生きているのは、もはやわたしではありません。
キリストがわたしの内に生きておられるのです
…。」 (ガラテヤの信徒への手紙2章20節より)
驚くべき言葉をパウロは語ります。自分はもう死んだも同然だ、生きているのは自分の抜け殻だと言うのではありません。古い自分はキリストと共に十字架に死んで葬られ、キリストが自分の内に宿り給うて自分を新たな生命に生かしめて下さっているのだと告げているのです。これはパウロに特別な心境の様に見え乍ら、実は信仰に導かれ、洗礼によってイエス・キリストと深く結びついた者達(キリスト者)皆が同様の恵みに与っているのです(ローマ6:1以下)。神が私達を義とお認め下さる(是認下さる)とすれば、それは律法の求めを全て実行する事によるのではなく、ただ“キリストの真実(十字架に至る程の従順)”による神の御好意に与る以外にはありません。その“義”に根差して生きる新たな生活は、信仰へと導かれ洗礼に与る時から始まります。キリスト(聖霊)が私達の内に宿り給い、神の御旨に従わせて下さいます。 牧師 桑原睦彦
2026年7月26日
「ああ、物わかりの悪いがラテヤの人たち、だれ
があなたがたを惑わしたのか…。」
(ガラテヤの信徒への手紙3章1節より)
M.ルターやカルヴァンら宗教改革者達から受け継いだ信仰的遺産の1つに“信仰義認の教理”があります。“人は律法の行いではなくイエス・キリストへの信仰によって神に義とされる”という信仰理解です。この教理の典拠がローマ書でありガラテヤ書でした。ガラテヤ書の3章と4章はこの信仰義認に焦点が当てられた箇所になりますが、その冒頭で著者のパウロは改めて“物わかりの悪い人達”と嘆きつつ、信仰の本義を解き始めます。そこで先ず強調されたのは私達が信仰に導かれるのもこれを養われるのも聖霊のお働きに拠る事であり、その際御言葉(教会の説教)を聴いて信じるに至らせるのが神様の為さり方(ある意味奇跡的な為さり方)であるという事でした。これは2千年前に限られた事ではなく、今もなお神様は牧者達、教師達の説教を潔め用いて各世代の方々に福音を届け、信仰へと導いておられます。人は“聴いて信じる”よう招かれているのです。
牧師 桑原睦彦

2026年5月31日
「キリストは、わたしたちの神であり父である
方の御心に従い、…御自身をわたしたちの罪のた
めに献げてくださったのです。」
(ガラテヤの信徒への手紙1章4節より)
パウロはかつて福音を伝道し設立されたガラテヤ地方の諸教会が、異なる福音(異端の教え)に惑わされ信仰を崩しかけていると聞き、急いで手紙を書きました。普通手紙の書き出しは、相手の安否を尋ね思いやり穏やかに書き始めますが、パウロは挨拶もそこそこに急いで本題に入ります。主に在る恵みと平和を祈りつつもすぐさま福音を語り始めます。一刻も早く本物の福音に立ち帰り信仰を取り戻してもらいたかったからでした。冒頭の御言葉はイエス・キリストは私達を悪の世から救い出す為に私達を罪から贖う十字架の死を遂げて下さった事、それは父なる神の御心に従順に従う事により実行された事を告げています。この福音に与ってキリストに救われた者達はこの世の悪と闘い罪を憎みますが、他者・隣人は愛します。その救いを願い福音を伝え執り成し祈り続けます。キリストの愛がその様に促すからです。
牧師 桑原睦彦